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【としまえん恋愛エッセイ】季節を知る

夏、夏ね。
きっと「夏」というのは、幼いときにだけ訪れるもので、年を取ってからは「暑さ」だけが残る。そういうものだと思っていた。

 

 

絵に描いたような「夏」の日を覚えている。 受験勉強に明け暮れる高校3年生、8月の半ば。少し汚れた布財布に、お小遣いとありったけの期待を詰め込んで、としまえんへと駆け出した日のこと。
その日は、趣味を通して知り合った1人の女性とオフ会をする予定になっていて、その集合場所こそがとしまえんだったのである。
彼女とは前々からよくスカイプをしており、桜台駅付近でひとり暮らしをしていることを聞いていた。だからこそ僕は、
「今度どこで会う?」と尋ねられたとき、
「ぜひ、としまえんで」と返したのであった。

 

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17歳の僕にとって、「世界」というのは、自宅を中心とした直径5キロの範囲を指す言葉であった。
というのも、小学校から高校までの間、僕は自宅から徒歩5分の私立学校に通い続けていたし、休日もほとんど遠出をしないような生活を送っていたからである。


あの頃の僕は、隣町の丘からみえる夕陽がこの世のどんな景色よりも綺麗であること、渋谷ハチ公前の近くではくたびれた学生たちがよく煙草を吸っていること、御茶ノ水駅前のラーメン屋のおじさんは見かけによらず底なしに優しいことを知らなかった。見慣れた景色の中で、身体だけが大きくなっていく感覚があって、この街を走り回ってさえいれば、いつの日か自然と大人になれるような気がしていた。
そんな僕にとって、としまえんは直径5キロの遥か先にある途方もないもの、果てしなく遠いものであり、今にすればなんてことのない「目的地まで20キロ」という数字は、異次元の質感があった。


たぶん受験勉強のさなかにあった僕は、精神も肉体もウズウズしていて、とにかく遠いところまで駆け出したかったのだと思う。当日、僕が選んだ移動手段は、自転車であった。
インターネットで親しい女性に会うため、としまえんへと繋がる果てしなき公道を走り続ける。道路の横にはアサガオが咲き、街道沿いの木々には蝉の抜け殻がたくさん止まっていた。
 
90分の自由走行。当時の僕にとって、それは大きな冒険である。次々と商店街を越えて、公園を越えて、街を越える。これだけのことが、何よりも壮大な事象に思えて、およそ20キロの公道は、限りなく茫漠としたものに見えた。この世にはきっと「果て」なんてなくて、そのままきっと、どこまででも行けるような気がした。
そして、あのときに見上げた赤々しい太陽や、通り過ぎる家々がぶら下げていた風鈴、ガストの看板をウロウロ飛んでいた雀蜂はもう、紛れもなく「夏」であった。


こうして辿り着いた走路の果て。としまえんのゲートの前には、彼女がちょこんと立っていた。長い黒髪に薄緑の上着。目鼻立ちがはっきりしている彼女、スカイプでよく見た顔だった。
そして彼女は僕に近づき、
「汗、かいてるよ」と言った。
はじめましてでも、やっと会えましたね、でもなく、汗、かいてるよと言った。
僕は汗を垂らしながら、
「夏ですからね」と笑ってみせた。
あれはもう、7年前のできごとである。


僕にとってのとしまえん。その第一印象は、明確に「自由の象徴」そのものであった。直径5キロの閉鎖空間、受験勉強という単調な灰色の向こう側。そこには、夏は最低でもこれぐらい勉強をすること、だとか、お小遣いはなるべく節約して使うこと、なんて束縛が一切なくて、ただ青い空と色とりどりの遊具だけが広がる新世界であったのを覚えている。


そして結局、彼女とはちょっとばかり親密な関係になり、1年後の夏頃までは、ときどき2人でとしまえん付近を散歩することになるのだが……。
小学生のときに抱いたような、触れれば消えてしまうぐらいの恋心は、あまりに淡い。こうしたものを除けば、たぶん彼女は、僕が男として、はじめてちゃんと好きになった女性だったのだと思う。
つまり、暑さで溶けそうな豊島園駅前のコンクリートも、淡い水色がゆらゆらと揺れていたプールの水面も、屋台のおばさんが声高に売り出していた串焼きの熱も、僕にとっては「初恋」の記憶と密接に絡むものであり、自由と初恋、それが、僕の目に映るとしまえんであった。

 

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自転車を漕いだあの日から長い長い時間が過ぎて、家と職場の2点を往復することが人生のすべてになった僕は、金を稼ぐことと、おいしい料理店を探すことだけが得意になった。


会社へ向かう電車の窓越しには、「夏」が見えない。電車はあのときの自転車よりもずっとずっと高速で、商店街、公園、そして数々の街を通り過ぎていく。僕はこうした風景を記号としか捉えられなくなって、もちろん、無意味な記号を黙殺することが日課の「大人」にとって、そんな風景は何の感傷にもならない。
きっと春は桜が満開で、冬はイルミネーションが美しかったのだろうけれど、四季はすべて、乾いていた。
自転車で移動したよりもずっとずっと長い国分寺四ツ谷間は、もう絶対的な僕の現実に過ぎないものだから。公園にカブトムシを捕まえにいく子供の笑顔も、部活終わりに仲間と食べた安物アイスクリームの味も、もうすべて、現実に溶けてしまったものだから。


部屋を燃費よく冷やすことが随分と上手になった現代のクーラーは、僕に夏の断片すらも感じさせない。
2地点を往復するだけの亡霊になった僕に「夏」はなく、ただ外出したときに感じられる気温の変化だけが、季節のすべてになった。
夏の景色に心を打たれていた高校生の少年は、都会のビル街を眺めながらため息をつくだけの大人に変わってしまったのである。

 

 

交友も恋愛も輝いていた大学時代が終わって以来、僕の時間は止まっていた。ただ仕事に忙殺される日々。
何も起こらず、音を立てることすらなく、時間は淡々と進んでいく。僕は季節も、時間の流れも感じられなくなって、ただ無機質な日常を空費するだけ2020年が、そこにはあった。

 

そんなさなか。無表情で仕事を進める僕の前に、「としまえん閉園」の文字列が飛び込んできた。
それを見た途端、ふと一瞬、反射的にあの頃のとしまえんが頭に浮かんで、同時にプールの水飛沫が上がる音や、ジェットコースターの走行音が耳を掠めた気がした。
入園口からエルドラドへとつづくコンクリートの道。時代に取り残されたような錆びた建物たち。駅前のロータリーに映った僕らの影。
今はもう輪郭もぼやけて、おそらく歪められてしまったであろう思い出たち。それでもたしかにその光景は輝いていて、記憶の端々には陽炎が立ち上っていた。同時に僕は、あまりにも無感動になってしまった自身の心を恥じた。


受験勉強を投げ出して自転車を漕いだあの日から、翌年夏、彼女と最後にとしまえんに行った日までの期間は約1年。あの頃、勉学とテニスしか物事を知らなかった僕はあまりにもお子様舌で、恋愛なんてものの手際がわからなかった。彼女の瞳は、なぜかすべてを拒んでいるようにも見えたし、どうしてか僕は、あの時間が壊れることだけが無性に恐ろしかったのである。
だから僕は、「好きです」というたったの一言が最後まで言えなかった。僕の中に溢れていたその言葉は、としまえんの優しい喧騒に吸い取られて、胸の中で消えた。

 

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8月。閉園のニュースによってなんとなく昔が恋しくなってしまって、現在はもう使っていないフェイスブックのアカウントを久々に覗いたら、そこには彼女の名前があった。


住まいが変わっているだけでなく、写真には赤ちゃんの姿が映っていた。彼女の表情もまた、少女から母親のそれへと変わっているように見える。アイスクリームを食べる彼女のシルエットは少女そのものだったから、僕の頭にはその面影だけが残り続けていたけれど、そんな季節はとっくに終わっていたのである。今は2020年。彼女はもう、煙草の味を知っていそうな女性だった。


そしてそのとき、彼女とはじめて会った2013年の夏から今までの間には、果てしなく長い時間が過ぎていたことを、僕はようやく悟った。ただ淡々と心を殺し、四季すらも感じずに生きていた僕に反して、季節は次々とめぐっていたのである。あの日、眩しい光を留めていたとしまえんは終わる。彼女は僕の先を生きる。7年という時間の中で、物事は目まぐるしく変化していた。それがわかった瞬間、僕はたしかに「時間」という概念を叩きつけられて、今は夏であること、8月であること、あのときと同じ季節なのに、少し違った日射しが僕を照り付けていることを身体で感じた。


としまえんの最終日。遊園地のエントランスに行き、彼女に向かって大きく手を振っていた自分の姿を思い出したとき、僕の身体は少しだけ。少しだけ、夏の気温に相応しく、熱くなった。